兵庫 食の応援団

「国生みの島は人をも育む」 日本料理店「玄斎」店主の上野直哉さんからエッセイが届きました。

国生みの島は人をも育む

 

明石海峡大橋が開通する前から、淡路島には恩人がいた。 大阪の高校を卒業した私が、20代前半までを過ごした京都の割烹に、明石浦で揚がる飛び切りの鯛を、毎日生きた状態で運ぶ水口さん。 当時、世間にその名を知らしめたのは、目利きと活締めの技術。 そして、京都の名だたる料亭・割烹に、確かな品を毎日届けるために腐心する姿。 見習いにも満たなかった私、そして代々の先輩方、後輩達も、皆が魚の扱い方から、職人としてのあり方を教えていただいた。 店の定休日には、「淡路に来いよ。」と声をかけていただき、彼の仕事終わりの昼から、一緒に日帰り旅行にもよく出かけた。 今思えば、卸している料理店の修行中の見習いを順番に呼ぶだけでも、かなりの数になる。時々、よそのお店の同年代の子ともご一緒出来て、そういう楽しさもあって、ついつい甘えて岩屋港に降り立つことが多かった。 夕刻。小さな川べりの細い路地にある鮮魚店に接する島の寿司屋には、びっしりと地魚が並んでいた。 鯛やヒラメの他、アブラメやアマガレイといった白身、キラキラとこちらの顔が映りそうな太刀魚や、まだまだ活かっているサワラやマナガツオ。メクリアジや由良ウニは勿論、ニシ貝やシラサエビ、タモリ(セトダイ)なんかもあったかな。 食べたことのない魚を次々と平らげる厚かましいい私。水口さんは、いきり立つような勢いだけの若造の話を聞きながら、ニコニコと赤ら顔で、小鉢を肴に瓶ビールを飲む。 最終電車に間に合う高速艇に飛び乗って翌日(数時間後)、何食わぬ顔で、「おはよう。」って、京都のお店でまた再会。 普段通りの一日が始まる。

淡路島の自宅を未明に出て、鮮魚トラックとセリ場のある明石に渡って、午前中に京都中の鮮魚店・料理店を回って帰る・・・。そんな亡き父の仕事に、誇りを感じた息子さんが後を継いで久しい。 今日も都へ。自慢の明石鯛を運ぶ。

変わらぬことがある反面、島も変わりつつある。 例えば、島外からの新規就農者が増えている。 中でも私が注目しているのは、東浦の丘を開墾して葡萄畑とワイナリーを造ろうとしている女性。 その名も、偶然水口さん。 たまたまとは云え、ご縁を感じる。 40代に入った彼女が創り目指すのは、自分の代で叶わずとも、次の世代に残すべきもの。 元々教職だった彼女らしい発想だ。 林業の考え方にも近い、長く先を見据えた産業は、自然の営みに決して逆らうことなく、続けられるのであろう。

国生みの島は、この先も食と人を育み続ける。

 

上野直哉